文化

仏教的体験・最後心の見方【鈴木大拙『無心ということ』断章】

 いわゆる宗教学者は宗教というものの最後は「聖」であると言う。

これは分別の世界には真理、倫理の世界には善、芸術の方は美、宗教の方にはもう一つ聖の世界というものがあると言う人がある。

ところが本当の仏教的体験からすると聖というものはない。

その実は聖も真も善も美もない。そういうことを言うのはまだ相対の世界に滞っているのだ。

そこを突き抜けて、滞らないところに飛び出ると、事々無礙なるところ、遊戯自在で、無限の創造が可能の世界にはいることができるのである。

川瀬巴水「箱根芦之湖」(1935年)
川瀬巴水「箱根芦之湖」(1935年)

このごろは爆弾などを盛んに使って地面の中にいくつでも大穴を開けているということですが、それが柔軟心の大地になると、そういう鉄砲弾を破裂もさせずに、自分のお腹の中に飲み込んでしまう。

こんな大地に向かっては喧嘩しても駄目である。爆弾でさえ飲み込んでしまうようでは、手のつけようがない、大地はそういう風なものです。

人間が狭い所におって喧嘩して、いろんなことをしていますが、近ごろは悪戯いたずらの度が次第に高じてきました。

科学の世界では山を壊してしまったり、海を埋めてしまったりするのが、何でもないことになった。

なるほど、地球全体からいえば、大地や大海は何しても知らん顔している。人間が山を壊して、海を埋めても、大地の方で何かそれで具合が悪ければ何の事なくそれをひっくり覆してしまう。

人間の方で大地の仕方が気に食わぬならまた勝手に壊したらいい、というような顔を大地はしているようにも見える、大地の方は平気の平左衛門なのです。

そういう大地のようなものが人間にあると、すなわちそういうような心持がわが心の中にあるというと、そこから宗教の芽が育ってくる。すなわちそこに宗教がある。

 昔から大地の譬えはお経の中にも沢山ある。

海岸の砂の上へ人間が行って踏みにじる、その中には立派な人もあるし、乞食のような人もあるし、赤ん坊もあるだろうし、その他種々雑多な人が砂を踏んで歩くが、その海辺の砂は何の不平も言わずに踏まれるままに、その足の大きさだけを残しておく。

が、また風が吹くとか、波でもやってくれば、それらの足跡は、奇麗さっぱり、もとのごとくになくなってしまう。

そういうものが宗教的生涯の極致というところにあると、仏教などでも説くのである。

木と同じようなものになる、石と同じようなものになる。

雲が山の洞穴から出る時と同じです。別に無頓着ということではない、無神経ということでもない、無機界の消息を伝えるというのではない、また何も彼も無茶苦茶になる世界の話ではない。

そんな評判はわれらが今日こうやっている世界を基準にしてのことで、この基準で測られぬところがあるのを忘れているのです。

もう一つ飛び越えたら──飛び越えたといってはいけない、まあやむを得ないで、そういうことを言うのですが──一つ飛び越えるところがなくてはならぬのです。

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