浄土系思想、殊に真宗信仰の日本的霊性であることを知悉せんとするには、真宗という教団とそれを基礎づけて居る真宗経験とをはっきりと区別する必要がある。
この区別が十分に認識せられぬと、真宗信仰ほど日本的でないものはあるまいとの感じさえ可能であろう。

それは浄土系の思想はいずれも浄土三部経の所説に基づき、その所説は全くインド的だと断定せられるからである。
浄土三部経……浄土教の根本経典である『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』。
しかしこれは物事の表面だけを見る人々の考えで、彼らの眼光は薄い紙の裏さえ見透かすことが出来ぬと謂わなければならぬ。
なるほど、真宗教徒は浄土三部経を所依の経典として居る。
が、それならば、真宗は何故に支那またはインドで展開しなかったか。浄土教の起こりは支那では六朝時代だと思うが、それから今日に至るまで少なくとも千五百年を経過して居る。それにも拘わらず、千五百年前の浄土教は千五百年後の浄土教である。
それから真宗的横超経験及び弥陀の絶対他力的救済観は生まれなかったのである。
親鸞が浄土真宗の特質をあらわすのに用いた言葉。「横」は他力、「超」は速やかに迷いを離れること。尚、竪超は自力により仏になること。
これに反して、日本では法然上人が浄土宗を天台教義より独立させて一宗の面目を保たしめんとするや否や、彼の会下には親鸞聖人が出現した。
そうして彼の所説に一大飛躍を与えて居るのである。
鎌倉時代における日本的霊性の活動は法然上人の浄土観にも止まることを許さなかったのである。
それは親鸞聖人を起たさなければ已まなかったのである。これは決して偶然の事象だと考えてはならぬ。
日本的霊性でなければこの飛躍的経験は浄土系思想の中に生まれ出なかったのである。
浄土系思想はインドにもあり、支那にもあったが、日本で始めてそれが法然と親鸞とを経て真宗的形態を取ったという事実は、日本的霊性すなわち日本的宗教意識の能動的活現に由るものといわなければならぬ。
もし日本的霊性にしてただ受動性だけのものであったなら、こんなはたらきはなかったであろう。
ただ外から渡来したとか輸入されたとかいうものを、そのままで受け収めたに過ぎなかったのであろう。日本的霊性の目覚めそのことと、その目覚めに機会を与えた外縁とは、別々にして考えなくてはならぬ。
単に受け入れるという受動性の場合でも、受け入れる方に何か積極的なものを考えるべきであるが、今の場合、すなわち真宗的信仰の横超経験の場合では、積極的ということだけでは、すまないのである。
大いに有力な力のはたらきかけが、日本的霊性の中から出たと断定しなくてはならぬのである。
このはたらきが浄土系思想を通して表現されたとき、浄土真宗は生まれた。真宗経験は実に日本的霊性の発動に外ならぬのである。
それが仏教的構想の中に出たということは歴史的偶然であって、その本質の日本的霊性なることを妨げるものではない。