浄土系思想の中心は念仏であって極楽往生ではない。

念仏が方法で、往生が窮極のように、浄土信者はいずれも思って居るが、念仏なしの往生はないのである。
念仏→往生とつづき、
往生→念仏とつづくとすれば、
念仏即往生で、往生即念仏である。
しばらく此の世と彼の世とを対照させる意識の上で、念仏から往生へうつるようにいいなすが、それは分別上の計らいのはなしである。
念仏の外に往生があるものなら、念仏の外にもまた往生の途がなくてはならぬ。
念仏して往生するとすれば、念仏のところに極楽あり、往生ありとしなくてはならぬ。それが念仏三昧の生活である。
念仏しつつ往生を考えて居ては、その念仏は純粋性をもたぬ。
絶対の念仏ではない。
念仏そのものが大切なのである。一心の念仏だけが大切なのである。
一応、現世否定のうらに浄土往生をおくが、この否定と往生とは、実に南無阿弥陀仏において統一せられるのである。
それ故、六字の名号を称えることによりて一切の悪業が除かれる。
そしてこの除かれることが、すなわち浄土往生に外ならぬのである。
法然も法然の信者も、伝統的に教えられるままに、意識の上では、念仏称名是往生の業と心得ては居るが、彼らの霊性的直覚は必ずしも、そこにはないのである。
この直覚がまだ十分に自覚されぬので、此土と彼土、厭離穢土と欣求浄土とは対峙し思惟せられて居る。
まだ「一心の念仏」にはなって居ないのである。
しかし彼らの志向はいつも一心のところに在るのだから、往生といいつつ決してこの一事をわすれないのである。
ある意味では、念仏はまた祈りである。
現世の批判はその否定であり、否定はそのうらに浄土の肯定をかくして居る。
このかくれたるものへの意向は祈りに外ならぬ。
祈りは有意識と無意識とに関係しない。
現世を超えんとするところに祈りがある。
三位の中将のように「悪心のみ遮って、善心は曾て発らず」というところは、彼は悪心を反省して、これを超えんとして居る。
超えてのさきが何かの形で目の前に見えぬ限り、超えんとの希望は発生し能わぬ。
ここに祈りがある。
ここに南無阿弥陀仏がある。
本願の念仏の行がある。
祈りは永遠である。
それ故、念仏は永遠である。
また仏の本願も永遠である。
三万遍・六万遍・十万遍の念仏は、念仏の──祈りの──永遠性を示唆したものに過ぎない。
示唆というよりも具現化したといった方がよかろう。
永遠性の念仏は一心でないと出ないのである。
一心のところに永遠がある。
それは久遠の今である。
南無阿弥陀仏の一声である。