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祈りと念仏【鈴木大拙『日本的霊性』断章】

浄土系思想の中心は念仏であって極楽往生ではない。

Mer-Méditerranée-Sète_Gustave-Le-Gray_French_1857

念仏が方法で、往生が窮極のように、浄土信者はいずれも思って居るが、念仏なしの往生はないのである。

念仏→往生とつづき、

往生→念仏とつづくとすれば、

念仏即往生で、往生即念仏である。

しばらく此の世と彼の世とを対照させる意識の上で、念仏から往生へうつるようにいいなすが、それは分別上の計らいのはなしである。

念仏の外に往生があるものなら、念仏の外にもまた往生の途がなくてはならぬ。

念仏して往生するとすれば、念仏のところに極楽あり、往生ありとしなくてはならぬ。それが念仏三昧の生活である。

念仏しつつ往生を考えて居ては、その念仏は純粋性をもたぬ。

絶対の念仏ではない。

念仏そのものが大切なのである。一心の念仏だけが大切なのである。

一応、現世否定のうらに浄土往生をおくが、この否定と往生とは、実に南無阿弥陀仏において統一せられるのである。

それ故、六字の名号を称えることによりて一切の悪業が除かれる。

そしてこの除かれることが、すなわち浄土往生に外ならぬのである。

法然も法然の信者も、伝統的に教えられるままに、意識の上では、念仏称名是往生の業と心得ては居るが、彼らの霊性的直覚は必ずしも、そこにはないのである。

この直覚がまだ十分に自覚されぬので、此土と彼土、厭離穢土と欣求浄土とは対峙し思惟せられて居る。

まだ「一心の念仏」にはなって居ないのである。

しかし彼らの志向はいつも一心のところに在るのだから、往生といいつつ決してこの一事をわすれないのである。

ある意味では、念仏はまた祈りである。

現世の批判はその否定であり、否定はそのうらに浄土の肯定をかくして居る。

このかくれたるものへの意向は祈りに外ならぬ。

祈りは有意識と無意識とに関係しない。

現世を超えんとするところに祈りがある。

三位の中将のように「悪心のみ遮って、善心は曾て発らず」というところは、彼は悪心を反省して、これを超えんとして居る。

超えてのさきが何かの形で目の前に見えぬ限り、超えんとの希望は発生し能わぬ。

ここに祈りがある。

ここに南無阿弥陀仏がある。

本願の念仏の行がある。

祈りは永遠である。

それ故、念仏は永遠である。

また仏の本願も永遠である。

三万遍・六万遍・十万遍の念仏は、念仏の──祈りの──永遠性を示唆したものに過ぎない。

示唆というよりも具現化したといった方がよかろう。

永遠性の念仏は一心でないと出ないのである。

一心のところに永遠がある。

それは久遠の今である。

南無阿弥陀仏の一声である。

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