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空海の思想とは「全世界を反映する個」と「関係性のネットワーク」

空海の思想というのは、ものすごく簡単に言ってしまうと、世界にあるすべてのものは何一つとして無駄なものはないということです。

ジョン・ブルット「ナポリ湾」1864年

どんなに小さなものであっても全世界を反映している

たとえ一輪の花であっても、空気中の一微塵であっても少しも無駄ではない。無駄であるどころか全世界がその中に反映されていると考えます。

なぜなら一輪の花は、太陽や土、水や酸素、花粉を媒介する虫など、外界のネットワークのすべてを受けて存在しています。

そして、当然私たち人間も同じ太陽や水のネットワークを受けて存在しているわけです。

ちょっと俯瞰した視点で見てみると花も私もそれぞれ固有の実体があって存在しているのではなく、いろいろな関係性が集まって形をとっているに過ぎないということに気づくでしょう。

ならば一体どこで、どの境界線を以て、花と私、花と世界、私と世界は分かれているのでしょうか。

通常私たちは何気なく、当たり前のように二つのものを分けています。しかしその境界線の定義はあいまいなものです。

関係性の総体としての世界

この世界を関係性の総体として考えるならば、一輪の花や私だけを世界全体の関係性のネットワークから切り離して考えることはできません。

そして、一輪の花が私や世界全体と密接不可分とするのなら、一輪の花でも、空気中の一微塵でも、何であれそのまま世界の全体となりうるわけです。

究極的にはこの世界から何かが一つでも欠けてしまったとしたら、この世界の全体はあり得ないということになります。

その観点からすると、この現象世界のすべてのものは、全世界の反映であるというただ一点において、等しくなります。

一つ一つのものがそのまま世界の全体でありながら構成要素として世界を形作っているのなら、その構成要素は即ち、世界全体であり、その構成要素の間にはどんな差別もあり得ないということになります。

単純な一元論ではない

ただここで重要なのは、空海はこの現象世界を決して単純な一元論で塗りつぶしてしまうわけではないということです。

差異は差異として認めるのです。つまり、それぞれのものに差異はありながらも同じだというのです。これは矛盾していると思われるかもしれません。

しかし、すべてのものは別々でありながら相互に関連しあい、いわば関係性のネットワークを編み上げていると考えると、部分と全体は不可分であるということになり、矛盾も止揚されるのではないでしょうか。

世界に定まったものなど無い

このように、空海の思想というのは、まずこの現象世界に存在する個々のものの自律した性質、つまりはそれ自体の定まった性質というのを否定し尽くします。

その後で個々の存在するものには定まった性質、本質というものはないけれど、相互依存的な関係性のネットワークはあると説きます。

そして最終的には、相互依存的な関係性のネットワークのすべてがたたみ込まれた存在として、一度否定された現象世界に存在する個々のものが、それぞれ結局は世界の全体であると、全面的に肯定されるのです。

空海の思想の核となる曼荼羅の思想

空海の思想がビジュアル的に把握できる曼荼羅についての記事はこちら。

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