文化

禅宗美学と日本茶道の精神との関係とは?

禅宗美学とは

禅宗美学は生命美学として、とても高く深く測りしれない美学体系のように思われる。
しかしその実、禅宗美学はとても簡単なものだ。

禅宗美学は仏教が中国化した後の美学体系である。
いわゆる禅は衆生の本性、衆生が仏になる基因である。
禅宗の"禅"はまた本地風光、本来面目、自見本心と称される。
この"禅"は伝統禅学中の"静心思慮"の意味ではない。

日本禅学の鈴木大拙は「本来面目とは即ち、最も深い内在的自我、もしくは本来の生命である。
禅宗美学とは即ち生命美学である」と指摘している。

神坂雪佳「牧童」1909-1910年

禅宗美学の三つの段階

南禅美学は三つの段階を経て今にいたる。

第一段階は慧能の"道由心悟"、
第二段階は南方禅宗が提唱した"即心即仏"、
第三段階は馬祖道一が晩年に提唱した"非心非仏"。

この三つの段階はすなわち無分別な論理により絶え間なく推し進められたものである。"即心即仏"の段階ではまだ完全に人性と仏性、汚染した心と清浄な心との二元的分別から離脱しきってはいない。

"非心非仏"の段階になると人生と仏性、汚染心と清浄心の間にもはやどんな区別も存在しない。いわゆる無分別心とはすなわち一切の事物に対して分別を加えないことなのである。禅宗は分別心があるので煩悩があると考える。

慧能は"無念為宗、無相為体、無住為本"の思想を提唱した。"無念""無相""無住"は即ち無分別の結果であり、煩悩から離脱するために必ず通る道でもある。

無分別的思惟は世俗理性的思惟に真っ向から対するものであり、ちょうどポスト構造主義が二元的な理性思惟に反抗するように無分別的思惟も世俗理性的思惟の妨害に反抗している。

禅宗美学とポスト構造主義

ポスト構造主義(Post-struction)は一種の思想の潮流としてフランスで起こり、アメリカで盛んである。この主の思想潮流は構造主義の思想潮流が発展する過程において次第に起こってきた。

デリダは公にポスト構造主義の代表人物とみなされている。
デリダの攻撃目標はすなわち、構造主義と西方形而上学的伝統中の"ロゴス中心主義(Logocentrism)"である。"ロゴス"という言葉は"言語"を表し、また"思想"の意味をも含んでいる。

それでプラトン以来、人々は思想と言語とを一致したものだとみなしていたがデリダはそうではなかった。デリダは言語と思想は一致しないとして"脱構築"という重要な術語を提唱した。"脱構築(Deconstruction)"は「解体」「分析」「瓦解」「消失」等の意味を含んでいる。

脱構築を通してデリダは構造主義の自足円満的構造とロゴス中心主義的な全体世界を転覆しようとした。簡単に言うと、ポスト構造主義は"語義は永遠に物自体と一致することはできない"と認識していた。言葉は物自体に対しての一つの区分わけ、あるいはかみ合いの過程にしかすぎないと考えたのである。

言葉への不信 「禅問答」

禅宗も開始以来今日までずっと、ポスト構造主義と同じ言葉に対する懐疑を抱いてきた。禅宗は心性の本体は言語を離脱しているとみなした。"説似一物即不中""開口即錯"などはすべてこの意味をなしている。仰山慧寂禅師は悟る以前、爲山霊佑に会いに行き、こう聞いた、

「達磨祖師が西方から来たことにどのようないみがあるのでしょう」。
爲山霊佑は答えた「大きな良い灯篭だ」。
仰山は「それだけですか?」と聞くと、
爲山は「これがか?」と言った。

訳の分からなくなった仰山は「果たしてまったく知りません」と言う。すると爲山は仰山が本体を知らず訓戒し叱責して、彼がまだ悟りに到っていないことを断定した。
なぜなら仰山は言語上のものに執着していたからである。爲山の言葉、"大きな良い灯篭"は不確定で曖昧模糊としているものだ。

どのような言葉でも心性の本体を明確に表すことはできないのだから、多くの禅師は学徒に講義し布道するときは開口一番「私の言葉を記憶すること莫れ」と言ったという。

なぜなら師匠の言葉でさえ不確定なのだから。

活法美学思想は心が言葉を超越することと心が法を突破することを指した。

"不立文字,直指本心"は言語を超越し、"非法非非法"は法障を超越した。

明らかに活法美学思想は心と法、心と言葉の審美的関係思想を重要視している。
臨済義玄は「法者は心法、心法は無形」と言及している。

黄竜死心は「汝、諸々の人が参禅せねばならぬと思うか? 禅は冊子の中に有るのではない」と言った。黄竜死心は学とたちが"確定性"に欺かれることを心配したのである。そこで禅が言語の中に有るのではないことを強調したのである。

ある人が保福殊禅師に「禅はどうですか?」と問うた時、保福殊禅師は「秋風がやって来ても、夕日でも聞くに堪えませんなぁ」と答えた。保福殊禅師は"蝉"をもって"禅"に代わらせたのである(中国語では"禅"も"蝉"も同じ発音)。

また"祖師禅"について問うた時、保福殊禅師は「南華塔の外、松の木陰の中で露を飲み風を吟じること更に多い」と答えた。依然として"禅"と"蝉"は分けられていない。
保福殊禅師の目的は質問者を啓発し、言語に拘泥せず、心が言葉に対して超越することを実現しようとしたのである。

禅宗美学とポスト構造主義の相似

ポスト構造主義と禅宗美学は自我を超越するという方面で相似点を有している。
一つは"分化"を通して、一つは無分別心を以って形而上学あるいは世俗理性中の自我を超越することを通して、人を完全自由の境地まで到らせようとしたのである。

禅宗美学大師はポスト構造主義者のように長大な分析を行ったのではない。
しかし彼等もそのままそっくり言葉の障壁を破るという主張を有していたのである。

平常心(びょうじょうしん)さえ備えれば、"禅"の真諦と美の本質を掴み取ることができる。

禅宗洪州宗の代表人物、馬祖道一は"平常心是道"の命題において、六祖慧能の"道由心悟"の思想だけでなく、禅宗の気ままな自然さを突出して表現している。

馬祖道一は日常生活の中からの参禅悟道、日常生活の中にいながらにして解脱を掴み取ることを重視している。
これは禅宗と伝統佛教および他の宗教との主要な差異である。

ポスト構造主義と禅宗美学は自我を超越する、言語を超越する、権威を超越する、幻想を超越するという4つの方面で相似点が存在する。

この相似点の形成は必然なのか偶然であるのか。両者はどちらも非理性的、二元的対立への反駁である。
世界はもとより多元的であり、無秩序である、そして人類生活とその思想はおのずから相似点が生まれてくるはずである。

日本茶道の成立

日本茶道は中国の禅宗の影響を受け創造された。唐代より中国の飲茶の習俗は日本へ伝わり、宋代に至り日本は茶の植樹、茶葉の製造を始めた。明代に至り日本独自の特色ある茶道が始まったのである。

12世紀末、日本臨済宗の始祖栄西は抹茶の特殊な樹を植え、緑茶の技術を日本へ持ち帰った。
またその苗を京都付近の宇治の参上に植えた為、今でもその地区で産出された茶を日本で最も優秀な抹茶であると称している。

その後、栄西は彼の弟子に対してこの種の渋く苦い茶を健康飲料として引用するのを奨励した。

16世紀、千利休大師は禅学を茶道の中に融入し、"和、敬、清、寂"を提唱し、今日の日本茶道を形作った。

茶道は仏教、道教、儒教と一体化し、独自な精神文化を形作った。形式上各種の生活芸術を統合した。

茶道の中の"本来無一物""無一物中無尽蔵"の哲学思想、非対称・簡朴・素淡枯高の美学思想および平等・互敬・恬淡の道徳観念、独座観念的自省精神は日本茶道の特徴である。

茶を入れることは決して難しくない。真に難しいのは精密で正確な精神を以って茶を入れることであり、それは参禅と自ずと似通ってくる。

茶室の配置は崇高、簡朴淡雅である。9平方メートルの畳の上で茶会に出席した人は貴賎の区別無く座し、静かな心で茶を入れ賞味する。寂静の中、塵俗千慮を忘却し、心神と自然を相和させる。

日本茶道の悪弊

しかし、皮肉で風刺的なことであるが、このように豪奢を廃した素朴な精神的生活が今に到り、極端に富裕なものだけがやっと享受できるように変わり果ててしまった。日本の工匠も機に乗じて更に高い収入を得ようとして、更に欠陥のある美的効果の狙いすぎた醜い茶具を作った。

しかも日本茶道はだんだんと流派(セクト)主義の悪習に陥る。
もともと自由闊達な生活芸術だった茶道はますます固定観念の束縛を受けるようになった。

もしこのようなことを続けていると茶道も形骸化したものに過ぎなくなってしまうであろう。
日本民藝運動の提唱者、柳宗悦はこのように腐敗した日本茶道の流派主義を強烈に批判した。
日本の茶道は臨済義玄や馬祖道一の自由な精神を顧み、日常性・平常心(びょうじょうしん)を重視し、
あくまで日常生活の中から価値を見出していくべきである。

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