我々日本人や西欧人が、中国の「やきもの」を想うとき、いったいどういうイメージを思い浮かべるだろうか。
多くの場合それは白磁であったり、青磁であったり染め付であったり、概ね磁器ではないだろうか。
中国の磁器の美
たしかに、磁器は中国の焼き物を代表するものであるだろう。磁器は薄く、軽く、堅く、たたくと涼しげな音がする。
中国以外では久しく作り得ない焼き物であった。
割れやすく、厚ぼったい土器や陶器しか焼くことのできない地域の人にとって磁器は神秘であり、畏怖すべき存在であった。しかし、磁器をあまりに重視しすぎて、磁器が作られる以前の長い焼き物の歴史を軽視するようでは磁器の本当の美しさをも見失ってしまう。
磁器を完成と考え、それ以前の焼き物を磁器に至るまでの過程と考えるということは、まず磁器を完成と考えることが間違いであるし、 単なる偏見である。
磁器の製法が伝わって、全く陶器が作られなくなった地域も確かにある。
日本が求めた陶器の美
しかし、日本のように 約一万年も前から陶器が作られ続け、いまだに陶器の美しさを追求し続けているところもあるのだ。
幸いにも日本では、柳宗悦らによる民芸運動によって日本各地の美しい焼き物が、たとえ日常生活に使われている雑器であろうと集められ、一般の人々に知られるようになった。
そして今でも日本国内、国外問わず多くの人の焼き物に対する認識を改め、多くの人に新たなものの見方をあたえ、深い共感を得ている。
もし中国でも皇帝の使うような磁器だけでなく、日常に使われているような焼き物の美が見直されるならば、中国はさらに多くの美しさを発見できるだろう。
磁器の美と陶器の美の相違
世に名品と呼ばれる磁器は美しい。
その美しさは誰もが認めることであろう。中国では多くの人が磁器の製作には加わり、大規模な分業制によって無数の磁器が作られた。
その中の一握りのものだけが残り、あとは壊された。それ故、磁器からはとても厳しい、澄んだ美しさを感ずる。気を抜けばこちらが圧倒されてしまいそうになる。
磁器の美しさは計算され尽くした、人間の智慧の結晶であろう。対して日常に使われるような焼き物は、決してそのような計算され尽くした美しさはない。形がゆがんでいたりもする。
しかし日本の先人たちは、ゆとりを持ってものに挑み、 侘び、寂を見いだした。
だから今でも日本では磁器に加えて、備前、丹波、常滑、越前、信楽、唐津など日本各地で焼きしめの陶器がつくられている。
また、中国の官窯の焼き物では人の手によらない偶然の美しさをあまり重視しない。
逆に日本では窯の中の炎による変化をとても重視し、窯変をとても大事にする。
なぜなら焼き物には世界のすべてが包摂されていると考えるからである。
これには華厳佛教の思想が深く関わっているだろう。焼き物は自然科学的に見ればただの土でしかない。
しかし、例えば一輪の花は決してそれだけでは存在し得なくほかのすべてのものと縁起で連なっており「挙体全真」として宇宙の関係が収約された点として存在していように焼き物は陶工の手から窯の火、それと焼き物の美を受容する人、焼き物を使う人とのすべての関係性が収約されている焦点といえる。
その関係性の中では、人間の造作・知恵などほんの小さなものでしかない。
受容する側が焼き物に共時性を感じて、美を発見する態度が中国では特に近代において失われているように感ずる。
中国の焼き物が失ったもの
中国は『使うことによって深まる用の美』を忘れ、西洋の考え方に合わせて、焼きものさえも純粋芸術としてみているのではないか。
素朴な焼き物の中から受容する方が美を発見し、日常に使ってこそ焼き物は輝く。
中国は今一度、その意識に立ち返るべきではないか。