オルダス・ハクスリー(Aldous Huxley)『知覚の扉(The doors of perception)』を読み、啓発され考えたことなど。
存在そのもの
存在そのもの(英語では isness : ドイツ語では Istigkeit)
「存在そのもの」、それはマイスター・エックハルトが好んで使っていた言葉だった。
文字面だけ見れば、プラトン哲学が言う「存在」と似ている。
しかし、プラトンは「存在」を「生成(変わりゆくもの)」から分離し、それを「イデア」の数学的な抽象化と同一視してしまうという大きな、そしてグロテスクな間違いを犯してしまったのだ。
プラトンは、内なる光で輝く花束が、その花の持つ「意味の圧力」で震えるのを認識することができなかった。
薔薇や虹彩やカーネーションが力強く意味するものは、それ以上でも以下でもない。
全ては儚い。だが永遠の生命である。
プラトンは、全ては「本来あるべき姿」以上のものではなく、それ以下のものでもないということを決して認識できなかった。
時間の消滅
私は空間に対して無関心となると同時に、時間に対しても無関心となった。
時間についてどう思うか、と聞かれても「たくさんあるようだ」としか答えられない。
時間は充分あるが、その量は関係ない。
私は時計を見ることもできたが、時計は別の世界にあるものだとわかっていた。
私の実際の経験は、過去も現在も、「無期限の持続時間」か、絶えず変化する「アポカリプス(黙示録)」で構成される永久の現在である。
裸の存在の栄光、無限の価値と意味が再び明らかにされる。
無我の最終段階には「すべてはすべての中にある」、「すべては実際にそれぞれである」という「不明瞭な知識」がある。
有限の心が「宇宙のあらゆる場所で起こっていることすべてを知覚する」ことに限りなく近いと私は考えている。
『チベット 死者の書』
私はエバンス・ウェンツ版の『チベットの死者の書』を取り出し、ランダムに開いた。
「高貴なる生まれよ、汝の心を乱すなかれ」
過去の罪の記憶、想像上の快楽、昔の悪事や屈辱の苦い後味。
普通ならば光を消してしまうであろう恐怖や憎しみ、渇望などに気を取られないようにすることだ。
仏教の僧たちが瀕死の人や死者のためにしたことを、現代の精神科医は精神障碍者のためにしないだろうか。
あらゆる恐怖、あらゆる困惑、混乱にもかかわらず、究極の現実は揺るぎないものである。
最も残酷に苦しめられた心の内なる光と同じ物質である。