阿弥陀仏となった修行者
遠い過去に法蔵という修行者がいた。
法蔵はどんな人をも救済しようと四十八項目の誓願を立て、五劫という途方もなく長い思惟と修行とを終えて、今から十劫の過去に誓願を成就して阿弥陀如来となった。
そして遙か西方、極楽浄土に在《いま》すという。
阿弥陀如来 第18の本願「念仏往生の願」
その四十八願のなかの第十八願に「念仏往生の願」という本願がある。
念仏を称えれば、たとえ誰であろうと、浄土に転生することができるというものである。
法然の「専修念仏」
法然房源空は、中国の善導の『観無量寿経』を注釈した『勧経疏』に触発され、専修念仏の浄土宗を打ち立てた。
法然の専修念仏は、口に念仏をとなえる以外の修行・学問はすべて不要というラディカルで先鋭的なものであった。
また、当時の人々がタブーとしていた六斎や女性の月の忌みなどの一切を否定して、合理的な思考をしたため、やがて東山大谷の吉水(現在の知恩院の地)には
僧俗・男女・貴賤を問わず、多くの弟子・信徒が訪れるようになった。
法然の弟子となった親鸞
自らの煩悩の激しさに苦悩し、法然の説く「僧が戒を守れなければ、戒にこだわらず一心に念仏を唱えれば良い」という言葉に一条の希望を見出した親鸞もまた、法然を訪れた一人であった。
親鸞の生涯
浄土真宗の開祖、親鸞は承安三年(1173)藤原氏の支流に当たる日野有範の長男として京都に生まれた。
公家ではあるがそれほど豊かではない家の出身であった。
幼少の頃、父親が出家して隠棲の身となったため、叔父の範綱が養父となり漢学・儒学を学んでいる。
そして九歳のときに高僧慈円の元で得度を受け出家し、僧となったのである。幼名の松若は範宴とあらためられた。
念仏道場の常行三昧堂の堂僧として修行する日々であったが、親鸞の心は一向に定まらず、心が騒ぎ、怯え、仏法を悟る術もなかった。
当時の僧院の堕落は凄まじく、権力闘争に明け暮れ、『沙石集』に見られるように僧侶の女犯など日常茶飯事で、果ては収奪、盗み、横領にまで至っていた。
周りの僧侶が戒を犯し、たやすく堕落していく様を見て、親鸞はかたくなに清らかな行状を保っていた。
しかし煩悩は抑え難く、理想と現実との狭間で苦悶する日々であった。
親鸞二十九歳の時、比叡山を下り聖徳太子ゆかりの六角堂において、決死の覚悟で百日間の参籠を断行した。
そして九十五日目の暁、救世観音が現れ
「行者宿報にて設(たと)ひ女犯すとも 我れ玉女の身と成りて犯せられむ 一生の間、能く荘厳して 臨終に引導して極楽に生ぜしめむ」との託宣があった。
この「仏道修行者が前世の因縁により、戒めを犯して女性を抱くようなことあっても、観世音菩薩自身が美しい女となって抱かれ、一生の間添いとげ、その上臨終の際には極楽に導いてくれる」というお告げは日本のすべてを包み込む母性原理の象徴であるともいえる。
親鸞の「破戒」
後に親鸞は仏教史上で初めて正式に妻を設けるという破戒を断行することになるが、すべてはこの託宣の導きであった。
インドの原始仏教では、すべてを裁断するロゴスの父性原理が主だったのに対して、日本で仏教は著しい変貌を遂げ、全くその原理が逆になっているのである。
親鸞はこの百日間の参籠の後、法然を訪れ教えを受けることとなる。
法然の教えに心から共鳴した親鸞であったが、法然の教えから更に一歩進めた考えを持つようになった。
「たとえ法然上人にだまされて、念仏して地獄に堕ちるようなことになったとしても、後悔はいたしません」と言い切るほどの信頼を師に抱いていた親鸞であったのに、親鸞の死後、親鸞の重いとは裏腹に、浄土宗から浄土真宗が分裂してしまったのもこの見解の相違からであろう。
親鸞の「絶対他力」
親鸞は「絶対他力」を主張した。
すべてを弥陀の本願に任せるということである。
「すべてのはからいを捨てよ」というのが親鸞のすべてだった。
親鸞は当時の「自力」仏道修行の正当性を完全に認めていた。
しかし末法の世において、その修行を完成することができず、善根を積むことができない親鸞と、一般の人々のためにはすべてを阿弥陀仏に任せる「絶対他力」しか道は無かったのである。
そのため親鸞の念仏は法然の「専修念仏」から「報恩念仏」へと変遷していった。
親鸞の報恩念仏では、念仏を称えれば救われるという因果関係を持ってきた段階でもはや「自力」の修行となってしまうからである。
中途半端な修行は、「自分は善を為した、自分は偉い」という邪見を招く原因となる。
悟りを開きたいというのも、自分を高めたいというのも、一種の迷いや抑圧と成りうるのである。
ただただ「南無阿弥陀仏」でなければならない、何の意図も介入させてはならない。なぜなら、もう阿弥陀による救いは成就されていて、必要なのは「信」だけだからである。
親鸞の「悪人正機」
また親鸞は法然の「誰でも救われる」というパラダイムを、悪人こそ救われるという「悪人正機説」へと更にラディカルなものへ移行させた。
信仰に厚い善人より、悪人の方が救われるというのはパラドックスである。
だが、どんなに善を為そうとも無意識的に、ある「契機」、きっかけがあれば人間はどんなに悪を行わないと思っていても行ってしまうことがあり得る。
そうした宿業は我々には捉えることができない。
瑜伽行唯識派の最高の境地、滅尽定においてさえ、無意識の闇、カルマの闇の汚泥は暴流のように流れているという。
これは自力作善の方法論への強烈なカウンターであろう。
中途半端な作善など、かえって害悪なのだ。
親鸞も自身を地獄必定であると感じていた。
己の悪の自覚にどん底まで堕ちて苦しみ、あがき、無意識の影の投影を引き戻し、自我との統合を図ったのである。
親鸞と神秘主義
徹底的に悪を自覚し、自己を無限小化しようとする親鸞の思想は、ミスティシズム(神秘主義)を帯びてくる。
行者と阿弥陀の間で事態は進展し、最終的には両者の近接が極限まで進み、両者の識別境界線が無化されるのである。
行者が自己の存在を滅すれば滅するほど、阿弥陀如来からの逆光はさしてくるのである。行者がすべてのはからいをすて、阿弥陀如来との間に働いていた拮抗が完全に消滅したとき、変成消融という合一体験が起こる。相互消融的合一(トランスフォーミング・フュージョン)である。
その境地に至っては、両者は相互に照応しあう二つの明鏡であり、もはや二つに分かつことはできない。
阿弥陀が阿弥陀の内部で阿弥陀自身を観想しているようなものである。
晩年の親鸞はこれを自然法爾《じねんほうに》と呼び、究極の理想とした。
親鸞の「自然」
すべての自然が念仏を称えている。
「仏は像では無い、仏に形はない、すべてが仏なのだ。すべて自ずから然らしめるものなのだ」
という親鸞の主張は如来蔵思想・本覚思想の究極の到達点の一つだといえる。
山川草木はすべて仏の本質をもっており、仏そのものなのである。
この親鸞の思想はドイツ神秘主義のマイスター・エックハルトや、汎神論的一元論を提唱したスピノザとも酷似している。これらの思想は西欧近現代が忘れてしまっていたり、周辺部に押しやってきた思想でもある。
全体の有機的な働きを見ようとしない、西欧近現代の要素還元主義はもはや破綻をきたしている。
部分はそもそも全体との関係から考えなければ、すべて意味を失ってしまうだろう。
この現代にこそ、親鸞の思想は生きてくる。
追記(2002.1.12)
歎異抄に描かれている親鸞の核心とも言える思想の『悪人正機』は実は法然から口伝で伝わったものであると専門家からの研究結果が出ている。
『悪人正機』の思想はよく誤解されるため、口伝で師から教わっていた。歎異抄も、親鸞と弟子唯円との対話の記録である。誤解されるのを恐れた浄土真宗中興の蓮如は歎異抄を一般人が読むのを禁じた。