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道元「身心脱落」という体験と理論【鈴木大拙『無心ということ』断章】

 道元禅師が支那に行かれて、そうして、そのころの天童山に住持の如浄禅師の下で修行して帰朝せられた。

そうしてどういうところで、如浄禅師が道元禅師の体験を是認したかというと、その道元禅師の言葉にこうある。

「身心脱落(しんしんだつらく)、脱落身心(だつらくしんじん)」

 こう言われたとのことである。これが非常な体験なのです。

体験がないと、こういう句がどうしても出ない。

William Trost Richards『Lake Squam from Red-Hill』American(1874)
William Trost Richards『Lake Squam from Red-Hill』American(1874)

身心脱落という身は体です。

われらは普通に身体というものがあるし、心というものがあると考えているが、その身体と思うもの、心というものが脱落したとは何の事か。

それはなくなるという意味じゃない。なくなるということは理屈の上から言う。

言葉の上からではなくなるとも言える。

ところが身心脱落ということは、道元禅師が実生涯の上に経験して、初めて言った言葉だ。

身心がなくなったという意味でない。

あるいは体と心を無にしたというのでもない。

それが一つになったということでもない。

そういうことを言うのは理屈である。われらが言うことです。

本当の体験をその境涯から言うと、身心脱落という言葉が自ら出るのである。

繰り返して言う、何もなくしたということではない。

この世界の終りに劫火というのがあって、三千世界がことごとく焼き尽くされるというが、そういう意味で無というのである。

自分が身心脱落ということを体験しなければ、この言葉の妙味が十分に味わわれないのです。

今日ではすでにこの言葉がありますので、今説明していろいろ申しますけれども、この言葉を初めて言い出した人はそういう理屈から言ったことではないのです。

 それで身心脱落ですが、それでもまだ十分に尽くせないので、脱落身心というのです。

これがわれらに言わせると、絶対に空の世界にはいるとか、無の世界であるとか、何とか彼かとか言うだろうと思うのです。

それは理屈であって、実際の体験からではない。

体験の上からは、「身心脱落、脱落身心」これが果して私の申すところに当るか、当らんかはわからぬが、私はそういう風に解している。

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トマス・エンダーの絵画『マウンテン・バレー』(オーストラリア)
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