『金剛経』の中心思想
山を見れば山であるといい、川に向かえば川であるという。
これがわれらの常識である。
ところが、般若系思想では、山は山でない、川は川でない。それ故に山は山で、川は川であると、こういうことになるのである。
AはAだというのは、
AはAでない故に、
AはAである。
般若系思想の根幹をなしている論理で、また禅の論理である。また日本的霊性の論理である。
非常識な物の見方だということにならざるを得ない。
すべてわれらの言葉、観念、または概念というものは、そういう風に、否定を媒介して、始めて肯定に入るのが、本当の物の見方だ、というのが、般若論理の性格
われらの知識というものは、常識の上でも、科学の上でも、いずれも、その物をその物として見るということであるが、般若の智慧なるものは、これに反して、まずその物を素直に受け入れないで、これを否定する、それはそうでないという。
そして、それから肯定に帰るということになるのである。
この頭の混乱というのは、もともとわれら自身から持ち出したことなので、当初にはなんらの混乱もなかった
山が山でないというと妙に聞こえるが、われらは始めから生も死もないのに、生まれて死んで、死んで生まれるというと、かえって不思議になるのに、われらはそれに気がつかないのである。
そして、いつまでも生きたいとか、死にたくないとかいうのである。
山や河や花や何かの場合には、これを否定すると、不思議だ、非合理だといわれて、われら自身の上になると、「不生」のところに生死を見たりして、「不生」の否定をなんともなしに考えて居る。
「不生」の上に生死を考えることは、山を山にあらずといったり、花は紅にあらずということと同じく、非合理だとか不都合だとかいえば、誠にその通り
禅はこの論理を論理の形式で取り扱わない。そこに禅の特殊性がある。
誰か君らを縛っているものがあるか。誰が君らを動かないようにしているのか
普通の常識がまず否定せられて、その否定がまた否定せられて、もとの肯定に還るということは、廻り遠い話である。
しかし、われらの意識は事実上この回り途をやらないと承知しないのである。般若の智慧、すなわち霊性的直覚そのものから見れば、初めから山は山、川は川で、そこになんらの面倒も曲折もない
こんな面倒なことの出来るのは人間の特権
ただ人間だけが、なんで生まれたのか、なんで死なねばならないのか、あるいは死にたくないとか、生きたいとかいって、いろいろに騒ぎ立てる。
動物も植物も死にたくないのであろうが、しかし死ぬる時には黙って死ぬるし、枯れる時も黙って枯れてゆく。
人間のようにもがくことはしない。そのもがくことをしないところに、動物のある意味での優越性があり、人間に及ばないところがあるともいえる。
しかしわれらは、犬にも猫にもなりたがらない。
山を山と見る時に、まず山は山でないと見て、それからまた山と見るというような、まだるかしい論理を好んで行じて居るのである。
まだるこしさ、悩み、煩いというようなことは、人間の特権だといっていいのである。般若はこの人間の特権というものを、はっきりと認めている。そこに霊性的生活の世界が開けて行く