文化

道元「柔軟心」宗教の本体とは【鈴木大拙『無心ということ』断章】

こちらの鈴木大拙「身心脱落」の話のつづきです。

William Trost Richards『Lake Squam from Red-Hill』American(1874)
道元「身心脱落」という体験と理論【鈴木大拙『無心ということ』断章】

 道元禅師が支那に行かれて、そうして、そのころの天童山に住持の如浄禅師の下で修行して帰朝せられた。 そうしてどういうとこ ...

続きを見る

 もう一つ道元禅師の言われた言葉がある。

その言葉と今の言葉を対照してみると非常に面白いことになる。

これは前にも述べたが、道元禅師が日本に帰って来られて、「お前は支那に行って何を学んで来たか」と、ある人が言った時に、道元禅師は、何も取り立てて言うことはないが、「柔軟心」を得たと答えられたということです。

トマス・エンダーの絵画『マウンテン・バレー』(オーストラリア)
トマス・エンダーの絵画『マウンテン・バレー』(オーストラリア)

柔軟心はどういうことかというと、われらは大抵普通に何か心にもっているものがある。

何かもっているから、それに当るというと、突っ返して来る、そうして力むのである。

これも昔、何か覚えていないが、文展か、帝展かで見た画を思い出します。

それは儒者の画を描いてあったが、その人の瘦やせ我慢の様子、骨と皮とでできていて、しかも肩を怒らして力んでいる様子、四書か五経かを前において、睨んでいるというような画がありますが、儒者といえば、あれがなかったら仕方がないでしょうが、あれには柔軟心というものがどこにも見えないのです。

いかなることをも我慢するという、それもなくてはならぬが、それだけでは何にもならぬ。

柔軟心はそうじゃない。

どこを押しても、柔軟で、包容的で、何でもその中に容れてゆくのである。

これが身心脱落の境で、これでないと、ものが容れられない。

これが宗教の本体だ。身心脱落、脱落身心でなにもないかというと、柔軟心というものがある。

それは消えてなくなっちゃったという意味ではない。

それで何でも容れるということになると、そこにものがないことはない、何かある。

身心脱落ということは空になることではない、何かある。あるが、そんならそれを摑もうと思うと摑めなくなってしまう。

そういうものがあると思うから摑もうということになる。

摑むにつかまれず、摑まれずにつかむというところを体験した人からすると、自然に柔軟心が手にはいるとでも申しましょうか。

柔軟心というは、神の御心のままにさせ給えなどという風にキリスト教の人は言うだろうと思う。

キリスト教の人は儂わしの解釈に対しては反対するに決まっているが、私はそういうように解してゆけばいいと思う。

そこに無心というものがあるとみたいと思っている。それでそういう風のところに無心というものをもってゆかないといけないと、こう思うのです

-文化