トマス・エンダーの絵画『マウンテン・バレー』(オーストラリア)

道元「柔軟心」宗教の本体とは【鈴木大拙『無心ということ』断章】

こちらの鈴木大拙「身心脱落」の話のつづきです。  もう一つ道元禅師の言われた言葉がある。 その言葉と今の言葉を対照してみると非常に面白いことになる。 これは前にも述べたが、道元禅師が日本に帰って来られて、「お前は支那に行って何を学んで来たか」と、ある人が言った時に、道元禅師は、何も取り立てて言うことはないが、「柔軟心」を得たと答えられたということです。 柔軟心はどういうことかというと、われらは大抵普通に何か心にもっているものがある。 何かもっているから、それに当るというと、突っ返して来る、そうして力むので ...

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William Trost Richards『Lake Squam from Red-Hill』American(1874)

道元「身心脱落」という体験と理論【鈴木大拙『無心ということ』断章】

 道元禅師が支那に行かれて、そうして、そのころの天童山に住持の如浄禅師の下で修行して帰朝せられた。 そうしてどういうところで、如浄禅師が道元禅師の体験を是認したかというと、その道元禅師の言葉にこうある。 「身心脱落(しんしんだつらく)、脱落身心(だつらくしんじん)」  こう言われたとのことである。これが非常な体験なのです。 体験がないと、こういう句がどうしても出ない。 身心脱落という身は体です。 われらは普通に身体というものがあるし、心というものがあると考えているが、その身体と思うもの、心というものが脱落 ...

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川瀬巴水「箱根芦之湖」(1935年)

仏教的体験・最後心の見方【鈴木大拙『無心ということ』断章】

 いわゆる宗教学者は宗教というものの最後は「聖」であると言う。 これは分別の世界には真理、倫理の世界には善、芸術の方は美、宗教の方にはもう一つ聖の世界というものがあると言う人がある。 ところが本当の仏教的体験からすると聖というものはない。 その実は聖も真も善も美もない。そういうことを言うのはまだ相対の世界に滞っているのだ。 そこを突き抜けて、滞らないところに飛び出ると、事々無礙なるところ、遊戯自在で、無限の創造が可能の世界にはいることができるのである。 このごろは爆弾などを盛んに使って地面の中にいくつでも ...

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Mer-Méditerranée-Sète_Gustave-Le-Gray_French_1857

祈りと念仏【鈴木大拙『日本的霊性』断章】

浄土系思想の中心は念仏であって極楽往生ではない。 念仏が方法で、往生が窮極のように、浄土信者はいずれも思って居るが、念仏なしの往生はないのである。 念仏→往生とつづき、 往生→念仏とつづくとすれば、 念仏即往生で、往生即念仏である。 しばらく此の世と彼の世とを対照させる意識の上で、念仏から往生へうつるようにいいなすが、それは分別上の計らいのはなしである。 念仏の外に往生があるものなら、念仏の外にもまた往生の途がなくてはならぬ。 念仏して往生するとすれば、念仏のところに極楽あり、往生ありとしなくてはならぬ。 ...

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小林清親『川口善光寺雨晴』明治12年 (1879)

日本仏教における浄土系思想、法然・親鸞の独自性【鈴木大拙『日本的霊性』断章】

浄土系思想、殊に真宗信仰の日本的霊性であることを知悉せんとするには、真宗という教団とそれを基礎づけて居る真宗経験とをはっきりと区別する必要がある。 この区別が十分に認識せられぬと、真宗信仰ほど日本的でないものはあるまいとの感じさえ可能であろう。 それは浄土系の思想はいずれも浄土三部経の所説に基づき、その所説は全くインド的だと断定せられるからである。 浄土三部経……浄土教の根本経典である『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』。 しかしこれは物事の表面だけを見る人々の考えで、彼らの眼光は薄い紙の裏さえ見透 ...

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川瀬巴水『手賀沼』(昭和10年)

日本人の生活と禅、中国禅との相違【鈴木大拙『日本的霊性』断章】

禅が日本的霊性を表詮して居るというのは、禅が日本人の生活の中に根深く喰い込んで居るという意味でない。 それよりもむしろ日本人の生活そのものが禅的であるといった方がよい。禅宗の渡来は日本的霊性に発火の機縁を与えたのではあるが、発火すべき主体そのものはその頃十分に成熟して居たのである。 禅は漢民族の思想や文学や芸術に載せられて来たが、日本的霊性は必ずしも能載の道具立てに目を奪われなかった。奈良時代に仏教文学及び思想がはいって来たごとくではなかった。 奈良時代や平安時代の仏教は日本の上層生活と概念的に結び付いた ...

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アルバート・ビアスタットの絵画『ロッキー山脈、ランダーズ・ピーク』

禅の論理と物の見方【鈴木大拙『日本的霊性』断章】

『金剛経』の中心思想 山を見れば山であるといい、川に向かえば川であるという。 これがわれらの常識である。 ところが、般若系思想では、山は山でない、川は川でない。それ故に山は山で、川は川であると、こういうことになるのである。 AはAだというのは、AはAでない故に、AはAである。 般若系思想の根幹をなしている論理で、また禅の論理である。また日本的霊性の論理である。 非常識な物の見方だということにならざるを得ない。 すべてわれらの言葉、観念、または概念というものは、そういう風に、否定を媒介して、始めて肯定に入る ...

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川瀬巴水 の絵画「裾野附近」

存在と生成・時間の消滅・死者の書【オルダスハクスリー『知覚の扉』断章】

オルダス・ハクスリー(Aldous Huxley)『知覚の扉(The doors of perception)』を読み、啓発され考えたことなど。 存在そのもの 存在そのもの(英語では isness : ドイツ語では Istigkeit) 「存在そのもの」、それはマイスター・エックハルトが好んで使っていた言葉だった。 文字面だけ見れば、プラトン哲学が言う「存在」と似ている。 しかし、プラトンは「存在」を「生成(変わりゆくもの)」から分離し、それを「イデア」の数学的な抽象化と同一視してしまうという大きな、そし ...

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ステンドグラスのあるキリスト教聖堂(教会)の画像

エックハルト「神の引力 THE ATTRACTIVE POWER OF GOD」2

THE ATTRACTIVE POWER OF GOD 02 このように、私たちは聖なる三位一体によって、力と知恵と愛の絆で、悪いものから良いものへ、良いものからより良いものへ、より良いものからすべてのものの中で最高のものへと引き寄せられるのです。 今、父は、その測り知れない力の強さをもって、私たちを罪の悪から御自分の恵みの善へと引き寄せ、罪人を改心させるために、父は、天と地を造ろうとされたとき以上に、その内に秘めた力すべてを必要とされるのですが、それは御自分の力でいかなる被造物の助けも借りずに造られたも ...

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大勢の信徒とキリスト教聖堂(教会)の画像

エックハルト『神の引力 THE ATTRACTIVE POWER OF GOD』

THE ATTRACTIVE POWER OF GOD 神の引力 ATTRACTIVE 魅力的な 引力 聖ヨハネ6.44.「わたしをお遣わしになった父がお引き寄せにならない限り、だれもわたしのもとに来ることはできない」。 St John vi. 44.—“No one can come unto Me, except the Father which hath sent Me draw him.” 我らが主イエス・キリストは福音書の中で、ご自身の祝福された唇でこの言葉を語られた。 これは、「父が引き寄せな ...

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